障害を個性にかえたショウジくんの話に胸キューン
私は今の学習塾を開設して来年で50年になります。
前身は小学校の教員でしたが、2人目の子供を身ごもったのを機に退職したのです。
単身家庭なので2人目の子供を預かってくれる人が見つからなかったからです。
そして開いた塾。
生活の手段としての、いわば「でも」「しか」の気持ちだったですね。
でも、生徒さんがやってくると学校とはまた違った喜びが感じられて、
のめりこんでいきました。
そして50年。
短かかったのか、あるいは長かったのか。
いろんな生徒さんに遭遇しましたが、忘れられない男児をご紹介します。
障害を個性にまで高めたショウジくんの話です。
ショウジくんは当時4歳。
お母さんの後ろに隠れるようにして教室に入ってきました。
一緒に来た4歳年上の兄ちゃんはしっかりと受け答えのできるお子さんでした。
お母さんのお話では、ショウジくんは発達障害だと。
名前を聞いて納得できました。
いつだったか、町の防災無線での放送を思い出したからです。
なんでも、幼稚園児が園舎からいなくなったので、心当たりのある人は
申し出て欲しいといった放送があったので、その名前を憶えていたからです。
その間にもショウジくんは母親の腕からすり抜けて教室中を駆け回り始めました。
大声、荒い足音。
それに、誰彼構わず頭や体をたたいて走るのです。
経験したことのない光景にびっくり。
このままお預かりした場合、私はしっかり対応できるけれど、
他の生徒さんへの影響はどうだろうかと考えると、
心が揺れました。
でも、ショウジくんの世話は自分がするからというお母さんの頼みで
入会してもらいました。
最初は「数唱」をくりかえしやってもらい、2ピースとか4ピースの
ジグソーパズルを根気よくやってもらいました。
ショウジくんはジグソーパズルが気に入ったらしくて熱心に取り組み、
36ピースや48ピースにまで手を伸ばすようになりました。
その頃にはじっとしていられず動き回る「多動」が姿を消し、
なんと、国語教材を音読できるようにもなりました。
おもらしをすることもなくなりました。
それまでは発語がやや遅かったのですが、自分の名前も言えるようになりました。
これにはご両親も大喜び。
ショウジくんの家は土木関係の仕事を請け負う株式会社をやっていて、
お父さんが社長。お母さんも重役といった環境で、
お兄ちゃんは将来社長になるお子さんでしたので、
ご両親の期待に応えるように賢いお子さんに育っていました。
それだけにショウジくんの障害は頭痛の種だったようです。
ショウジくんは中学校卒業とともに教室を去りましたが、
12年間のショウジくんとの関りは、私を鍛えてくれました。
老人施設に就職できたショウジくん
そして養護学校を卒業したころ、お母さんとばったりお会いしました。
お母さんは笑みをたたえて、ショウジくんが老人施設に就職できたことを
喜んで話してくれました。
入所者の洗濯物を分別して、間違わずにご本人に配布するのが仕事なんだとか。
「よかったですね」と申し上げると、
ショウジくんが入所者との対話の名人として人気を博していることも話して
くださいました。
相手の発言に耳を傾け、決して話を折らないので、
入所者は心を許して話せるんだとか。
これを聞いて、立派に個性を発揮しているんだとうれしくなりました。
そして2年前、ショウジくんから年賀状が届きました。
成人式の時のもので、背広を着てやや緊張気味な表情で
直立不動の姿勢をとっている写真でした。
お母さんに電話を入れると「そうなんです、うれしいです」と
涙声で答えてくださいました。
また数年たち、先日、スーパー内で声をかけられました。
長身の青年と一緒でした。
コロナウィルス予防のため3人ともマスクをしていましたが、
それでもその青年がショウジくんだと、すぐに分かりました。
母親に寄り掛かるように立つ青年の姿は、
やはり一風変わった様子に見えました。
そして周囲の視線には気をとられず
「○○教室、△△先生」と、3回も立て続けに私を呼ぶのです。
「はいはい、△△ですよ、ショウジくん、お仕事がんばってるんよね」と
言うと、「はい、はい」とこっくり。
まるで10年もの歳月が逆戻りをしたような一瞬でした。
この仕事をしていて何が楽しいかって、やはり、こうした
交流が得られることに尽きると思います。